「100年ライフ」時代の教育を実現するための教育国債について

安倍首相が教育の無償化の実現を目指していて、その財源として教育国債の発行が検討されています。教育国債はその名の通り、用途を教育に紐付ける国債を指します。

 

教育国債の積極論者は教育の国力や経済への好影響を、懐疑論者は国債を新たに発行することに対する不安を強調しているようです。しかし、私の調べられる範囲では抽象的な意見が多く、具体的なイメージはできませんでした。

そこで、それぞれの主張を自分なりに解釈し、具体的に検討してみました。読者の皆様の反響を仰ぎたいと思います。(話は逸れますが、ブログに対する反響は非常に勉強になり、学びが多い!これからも様々なピックスやコメントをお待ちしております。)

 

積極論に関して:教育の無償化を実現するための教育国債について

積極論者の主張は教育の経済や国力への好影響を重要視しています。

確かに、教育の無償化は経済格差の是正策になりうるし、国民全体の経済生産性の向上につながるでしょう。教育こそ未来の時代を創り出す源泉であり、「教育」という響き自体に誰しも少し希望を感じる部分があるのではないでしょうか。それゆえに、国債を発行するということに抵抗を感じる人でも、「教育」国債という名前を受けて少し肯定的にならざるを得ないのでは。

しかし、もっと具体的な教育国債の使い道について議論をすべきではないでしょうか?

何にお金を費やすのかを分かっていない段階では借金をすることを肯定も否定もできないと思うのです。

教育の無償化であれば、どこまでを無償化するのか。小中高大と教育過程があるが、どの過程まで無償化するのか。

私は大学教育を超えて生涯教育(就職後新しいスキルを身につけるために一旦労働を離れて学ぶサバティカルと呼ばれるもの)も財政的に支援すべきだと思っています。

『LIFE SHIFT 100年時代の人生戦略』でグラットン氏とスコット氏は、2007年生まれの子供107歳まで生きる確率は50%であり、今の時代の若者にとって100年生きることは当たり前になりつつあると提起しています。

そこで、100年ライフにおいてはかつての「教育→仕事→引退」の3つのライフステージのあり方が変容すると言います。

つまり、65歳で引退していては経済的にも文化的にも今までの生活水準を保つ・育むことができない。「仕事」のステージが長期化することは避けられない。

一方で、AIや他のIT技術の急激な発展によってわれわれを取り巻く労働環境が激変していくことが予想されます。そこで、私たち若者は就職直後に身につけた知識やスキルを時代に合わせて柔軟に変身させていかなくてはならなくなる。

もしかしたら、自分が身につけたスキルが将来は陳腐化してしまうかもしれない。

そこで、政府が支援する教育は就職前に社会に出る準備をする場に限らず、環境の変化に応じて新しいスキルを学び直す場も提供すべきではないでしょうか。

 

「教育」というと、つい子供ばかりに目がいってしまい長期的視点になりがちですが、激変していく社会においては社会人も学び直す機会が必要であり、そのニーズはわりと緊急だと思うのです。

 

話がだいぶ膨らんでしまいましたが、

教育国債を議論する際に「教育」をという概念を日本ではどう定義し、どういう未来を創っていくのかを明確にしそれを実現するための手段として国債を発行することが望ましいのかどうかを検討すべきかと思います。

 

消極論に関して:国債を発行することへの拒絶

消極論者の多くは国債を発行することで国の借金が増えることや、将来にツケを回すことに抵抗を覚えているようです。

しかし、政府の借金が増えることは必ずしも国内からお金が不足してしまうことを意味しないかと。以前のブログ(日本がベーシックインカムを導入すべき三つの理由 - japo_kenny’s blog)でも書かせていただきましたが、国が使ったお金は経済の誰かの手に渡りその人が経済活動を行ったり、消費をしたりすることを通じて税金という形で政府に戻ってきたり、経済でお金が流通したりするわけです。

また、将来にツケを回さないようにする方法はいくつかあるようです。例えば、永久国債というものがあるようで、これは政府という機構が存在する限り利子は払われ続ける一方で、永久に償還されない国債です。英国で第一次世界大戦の戦時国債として発行されたことがあるそうです。

基本的に国債というのは、償還を迎える時期に増税という形でその世代の人々に負担を強いるので、償還自体が存在しない永久国債は「ツケ」が存在しないのです。(あるいは、ツケを永遠に回し続けるとも言えるか。)

上記のように、国債を発行することは実際には可能だし、将来時代にツケを回さない仕組みを作ることも可能でしょう。

国債を発行すること自体に関する議論は、一点目の国債の用途と比べたら副次的なものではないでしょうか。

教育に関する先駆的なビジョンがあり、それに合わせた適切で具体的なお金の使い道があるのであれば、国債を発行してでも資金を調達する必要があると思うのです。

つまり、教育国債の是非は政府による来るべき時代に関する教育のビジョンの明確性に依存するのではないかというのが筆者の意見です。

コメント、お待ちしております!